2009年9月14日

ハーモニカの構造

ハーモニカのリードは金属製で、それぞれのリードよりわずかに大きい穴を開けたリードプレートに取りつけてある。このリードプレートを木製あるいはプラスティック、また(近年現れたものであるが)金属製のボディに取りつけ、さらに金属のカバーで覆ってある。ボディにはリードの長さにあわせた溝が掘ってあり、前面の吹き口から吹き込まれた息で、それぞれのリードを振動させる仕組みとなっている。リードを取りつける向きによって、吹き吸い別々のリードを鳴らすことができる。「吹奏する楽器」であるが、いわゆるのような管体を持っていないので、管楽器という呼称はあまり用いられず、分類するなら(リードオルガン類)である。この事が口琴と言う名前の由来となっている

1820年頃に作られたオルガンの調律用の道具が起源といわれ19世紀中頃にウィーンで流行した。その後ドイツのトロッシンゲン(Trossingen)で改良が加えられ、中でもホーナー社(HOHNER)は米国市場の開拓につとめ世界的な楽器メーカーとなった。同社のマリンバンドという単音十穴ハーモニカはブルース奏者の愛用するところとなり独特の奏法も生まれた。ハーモニカは米国でマウス・ハープと呼ばれたため、ホーナー社はブルースハープというモデルを発売した(名称の由来は、本体を横から見た姿がハープに似ていると言う事から)。この名称は現在ではメーカーを問わず単音十穴ハーモニカの代名詞となっている。

ハーモニカはポケットに入れて持ち歩ける簡便な楽器であったため広く普及したが、半音が出せないためアンサンブルには不向きでありアマチュアの楽器と考えられていた。1920年代に現在と同じ構造のクロマティック・ハーモニカが開発され、ラリー・アドラー、トミー・ライリー、ジョン・セバスチャンなどのプロ・ミュージシャンも登場する。伴奏用の各種ハーモニカも開発され、数多くのハーモニカ・バンドがナイトクラブやステージショーの芸人として活躍した。

日本には明治の中頃に輸入され、明治末には日本産の製品開発が始まる。最初に製造発売したのはトンボ楽器製作所で、日本楽器製造がこれに続いた。大正から昭和初期にかけてハイカラ好きの若者の間でハーモニカは人気があり、各大学にハーモニカ・アンサンブルが作られるなど、マンドリンと人気を二分した。また、川口章吾や、宮田東峰などプロの演奏家も生まれた。日本では主に複音ハーモニカが使われ、ベース奏法やアルペジオ奏法、(日本ハーモニカ連盟では、「分散和音」と言っている。意味は同じ)など独自の奏法が発達した。楽器もドイツ製のオリジナルとは音の配列が違うものが開発されアジアに広まっている。

日本では太平洋戦争敗北以前は、「口琴」とも言われていた。プロの間では現在もこの言葉が使われている他、中国語圏でもこの表記が通用する。

ハーモニカはかつて(1970年代頃まで)日本の小中学校で学校教育用楽器としても用いられた。15穴の単音ハーモニカが小学校、上下式クロマティックハーモニカが中学校に導入された。しかし統一された方式が存在せず、教師もハーモニカの教育を受けたわけではないため指導が困難であった。現在、教育用楽器としては、鍵盤ハーモニカ(ヤマハの「ピアニカ」、鈴木楽器の「メロディオン」など)に取って代わられている。

「第4回アジア太平洋ハーモニカ大会2002厚木」(俗に言われる、日本ハーモニカオリンピック)を境として、ハーモニカ人口が再び増えてきている。ただ、レッスン場が不足気味、指導者の高齢等が問題になりつつある。音楽レッスン基本メソッドとして、有効とされる。基本的メソッドの成果として小学生プロも現れていると言う。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

意外と繊細な構造なんですね。ハーモニカ懐かしいです。

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2008年6月10日

コロベイニキってシッテマスカ?

コロブチカの方が一般的ですよね!

解説
コロベイニキ(коробе?йники、カラビェイニキ)とは、革命前のロシアで布や雑貨、本などを売り歩いた行商人のことである。1861年、雑誌『ソヴレメンニク(Современник、同時代人)) 』上でニコライ・ネクラーソフが発表した長編詩「行商人(コロベイニキ)」の一節に旋律がつけられて民謡化したものとされている。民謡化された部分の冒頭のフレーズから「Ой, полна, полна коробушка(おお、箱の中は一杯だ)」とも呼ばれる。さらにこの冒頭部分に現れるкоро?бушка(カローブシカ、行商人の背負う箱という意味)の語から「コロブチカ」のタイトルでも知られている。

詩が発表された後に作曲者は不明であるが曲がつけられ、瞬く間に広がってロシア民謡としての地位を確立した。日本では戦後、フォークダンスの曲として紹介され、分かりやすい構成のダンスと、だんだんテンポが速くなっていく楽曲構成が広く知られている。ただし、ネクラーソフによるオリジナルの歌詞は行商人の青年と村の娘の一夜の交際を描いたもので、演奏においても徐々にテンポが速くなるような演出はない。また、旋律もフォークダンスの「コロブチカ」として知られているものとは若干異なる。

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BGMとしての利用と大衆文化への影響
この曲は、コンピューターゲーム『テトリス』のゲームボーイ版でBGMとして取り上げられ、ロシアだけでなく西側諸国の大衆文化にも影響を与えた。1992年、イギリスの作曲家、アンドリュー・ロイド・ウエバーは、ドクタースピンの名前でこの曲のユーロダンスカバー曲『テトリス(Tetris)』をリリースし、イギリスのシングルチャートで6位を記録した。アメリカ合衆国のロックバンドであるオズマは、2001年発表のアルバム『ザ・ダブル・ドンキー・ディスク (The Doubble Donkey Disc)』の中で、この曲のロックアレンジバージョンを発表した。オーストラリアのアーティストであるヘドニック (Hednix) は、サイケデリックトランスの楽曲『ドント・メス・ウィズ・テトリス (Don't Mess with Tetris)』を2004年に発表し、エレクトリック・パワー・ポール・レコーズからリリースされた。ドイツのテクノグループであるスクーターは、2007年に発表したアルバム『ジャンピング・オール・オーバー・ザ・ワールド (Jumping All Over the World)』の楽曲『ホイッスリング・デイブ』の中で、コロベイニキをサンプリングして使用した。

テトリス・ホールディング・LLCは、この曲のビデオゲーム等で使用する際の音響商標(sound trademark)をアメリカ合衆国特許商標庁で取得している。
(以上、ウィキペディアより引用)

歴史があるんですねー!

2008年4月 3日

天狗党の乱

天狗党?

天狗党の乱(てんぐとうのらん)とは、1864年5月2日(元治元年3月27日)に起きた、水戸藩士藤田小四郎ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵と、その後これに関連して各地で発生した争乱のことである(1865年1月14日(元治元年12月17日)に主導者投降)。水戸のイデオロギー対立、政争に隠れているが、天狗党の多くに水戸藩領以外からも参加がありそれも武士階級以外の階層が含まれている点、政治的な宣伝を行軍中に行っている点など、乱の初期から過酷な行軍の間にかけて意識や思想に何かしらの変容があった可能性も明記しておくべきであろう。山田風太郎は毛沢東の「長征」とこの乱を比較しているが興味深い点ではある。

水戸学と尊皇思想
水戸藩主第2代徳川光圀が彰考館において大日本史の編纂を始めて以来、第10代徳川慶篤の孫徳川圀順が1906年(明治39年)に完成させるまで、代々多くの藩士が事業に携わることとなった。

編纂が進むにつれてその思想体系などが整備され、やがて水戸学と呼ばれる学問の一派へと成長し、水戸藩士は皆等しく水戸学の尊皇思想の影響を受けることとなる。

しかし、この思想は尊皇を説くあまりに、幕府より皇室を重んじる傾向があったため幕府から猜疑の目で見られる原因となり、幕政の中心から遠ざかる原因ともなった。

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派閥間の対立
大日本史の編纂事業は、江戸時代中頃に停滞期へ入ってしまうが、それを復興したのが立原翠軒であった。立原の下には多くの門人が集まり、その中には弱冠10歳で入門を許された古着商藤田屋の息子、藤田幽谷の姿もあった。

幽谷は18歳で幕府老中の松平定信に求められて「正名論」を提出するなど才能を開花させるが、立原との大日本史編纂を巡る考え方の違いや、立原に謹慎を申し渡されていた中で藩主徳川治保へ封事を提出して免職されるなどしたため、立原は絶交。師弟は対立するようになる。

1797年(寛政9年)、藩主治保は幽谷の考えに沿って大日本史の編纂を進めることを決定し、立原は彰考館を退職。これによって両者の対立は派閥間の争いに発展することとなる。

その後、立原派=保守派、藤田派=改革派として政治的対立が続く。改革派を継いだ藤田東湖が両派の関係修復に尽力するも、1855年に発生した安政の大地震にて東湖が圧死すると調停役を失った抗争は一気に泥沼化。血の粛清へと発展する。

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これら抗争によって両派とも巨頭になり得る人材を失い、問題の解決と関係の修復を行う力を失っていった。
(以上、ウィキペディアより引用)

派閥??